[死]がテーマ!【希望】がNテーマ!!『人魚の眠る家』監督 堤幸彦 ”人はいつ死ぬのか”そしてどこまで”死”は動かしていいのかを考えさせられました。

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映画 その他
映画『人魚の眠る家』 予告編
人魚の眠る家 予告

こんな方にオススメ!

  • 「命」に関する映画が見たい!
  • 家族の葛藤を描いた映画見たい!
  • 感動できる映画が観たい!

最初に

※先に言っておきますと、今回はおふざけを入れる要素がまるでないほど深刻な話です。苦手な方はご注意。

命

突然ですが皆さんは「命についてどう思うか?」を人生においてどれだけ聞かれたことがありますか?「命」について考えるとき、必然的にその先の「死」についても考えることになります。

人はいつ死ぬのか……心臓が動かなくなったとき、どう見ても生きているとは思えないとき、法律の定義で「死」が明確化されたとき……様々な答えが出ると思います。

それはいつ「人の死を受け入れるか」という問題でもありますね。命が大事という理屈であれば、「生きているのか」「死んでしまったのか」という境界線は非常に大切な話です。

誰かにとって「生きている」

誰かにとって「死んでいる」

善悪や残酷性などの問題ではなく、人の価値観によって決まってしまう問題であり、一概に答えは出ず、そして「生きていてほしい」という願いが、結局二つの溝を大きくしてしまうのかもしれません。

さて、今回の映画ですね。

とある事件がきっかけで「脳死」と判定された一人の少女と家族、そして周囲に焦点をあてた物語です

「希望を持ち続けること」が悪いことなんて決して言うつもりは有りません。しかし、周りは本当に「希望」ととらえているのでしょうか?ありもしない望みにかけつづける姿はただ痛々しく、ともあれば忌まわしいと捉えかねません。そして、あなたが考えている「希望」が「幻想」ととられてしまってもあなたは希望を信じ続けることが出来るでしょうか?

「命」「死」、そして「周囲の理解」について学べる映画です。

あらすじ

とあるごく平凡な家族、夫である和昌、妻である薫子そして二人の子供である瑞穂生人の物語……と言いたいところですが、もはや家庭は風前の灯でした。

夫である和昌の浮気が原因で離婚寸前だったのです。薫子はせめて娘の瑞穂が私立小学校の入学を決めるまでは一緒にいると決めていましたが、ギスギスした家族の関係を耐える日々を送っていました。

ある日、プールで事故があり、瑞穂が心臓は止まってはいないものの、意識が目覚めぬほどの重症、すなわち「脳死」と判断されててしまいます。そして医者から告げられる残酷な言葉に夫婦はためらいを覚えつつ、「瑞穂だったらどうするか?」を考え、彼女の死を受け入れようとしていました。

しかし、瑞穂が母親である薫子の言葉に反応したとき、彼女は確信しました。「娘は生きている」と。

そして、和昌は自分の会社の部下である星野祐也に対し、意識がない状態のままで体を動かせる最新技術、さらには様々な技術を活用した介護により、彼女を生かし続けることを決意します。いつか目覚めてくれること、そして娘は生きていると証明するために……。

こうして、自分で動くこともできず、眠り続ける少女……まるで「人魚」となった少女を「生きている」と証明するために家族は希望を持ち続けることになったのです。

その「希望」はあまりにも過酷異質なものでした。

映画のオススメポイント!

命の境について考えさせられました

境界線

おそらく当作品のメインテーマの一つであると言っても良いでしょう。

「命に優先度はない」「誰だって大切な命」という言葉はよく聞きますが、どれだけ広い範囲でこの言葉が具体的に語られているのか、どれだけあなた自身が向き合えるのかが問題です。

果たして、どのような命でも本当に大切にされるべきと言えるのでしょうか?生きているかどうかわからない状態だったとしても。

作中でも出てきますが、「人がいつ死ぬのか」の基準は国によっても違うようです。おそらく国、法律も相当迷っている問題なのでしょう。

瑞穂は眠り続けます。しかし、機械の力によって、少しだけ動いたり、少しだけ表情を変えたりはでき、一応、少しだけ人に対して反応することもできました。

しかし、「生きているか」という問いに対してはどこまでもわからなくなります。ちょっとずつ訓練をつんだり技術を更に試してはいくものの、やはり「技術」の進歩の問題であり、機械に無理やり動かされているという印象もあり、「彼女が生きているか」の証明からは外れていってしまうような印象を周囲もいだき始めるのです。

それでも母親は「娘は生きている」と強く信じ続け、たとえ周りの目が冷たくなろうとも、周囲を犠牲にするかのような強引な手段をとろうとも

「命」を絶対視しているようで、「命」に反逆しているようで、そして「瑞穂」のためなのか「自分のため薫子自身もそうですが、見ているこちらとしてもわからなくなってきます。

瑞穂は生きているのか、死んでいるのか……物語が進んでいくうちに、あなたの考えもまた変わっていくのかもしれません。

人と当事者の境界線を客観的に見れました。

自分と他人

瑞穂は生きていると信じ続け、薬や最新技術によって体を動かし続ける和昌と瑞穂ですが、周りの目は決して優しくはありません。少なくない犠牲は、様々な形となって現れ、より家族を悩ませます。

もはや「死んでいる」と判断した人に対し、人ができることなんてほとんどありません。言い換えてみると、誰かが「死んだ」と判断したとき、人は無意識で生きている人間と線引をしてしまうものです。

あえて残酷な言い方をしてしまうならば、死んでいる人間に対していつまでも何かを感じられ続けるほど「生きる」というのは簡単では有りませんから無理からぬことでもあります。それならば、「生きている人間にもっと役に立つことをしてほしい」と、本音で思う部分は多かれ少なかれあるかもしれません。今、苦しんでいる人、あるいは助けが必要な人を身内に抱えている人ならばなおさらです。

それでも「生きててほしい」という願いそのものは全く間違ってはいません。しかし、「どんな形でも」あるいは「どんな犠牲があっても」という条件がついてしまうと人によってまた、為すべきことが変わってきます。

人生は「他人の人生を生きてはいけない」という言葉があるように、当事者だけで満足すればいいという言葉はありますが、一方で、「少ない人数では生きていけない」という問題もあります。生きるにはある程度周りの理解が必要ということなのかもしれません。

身内のコミュニティと他者と境界線はどこで妥協するべきなのでしょうか?

映画内での家族の葛藤から考えさせられました。

Nテーマ【希望】について学べました。

さて、Nテーマです。

「【希望】ってまごうことなきポジティブな言葉なんじゃない?」とおっしゃる方もいるかもしれません。しかし、神話の中で災いをもたらすと言われているパンドラの箱の一番奥に入っていたのが【希望】というのは有名な逸話です。つまり、最も人々の苦痛を与えているのが、【希望】ではないのか、と。

映画の中でも家族も、そして周囲の人間も瑞穂が「生きている」というよりは「まだ死んでいない」という希望のもと、様々な問題が生まれてきます。それでも「死んでいない」ということを周囲に見せつけたり、あるいは他の人の【希望】を奪うような形にすらなってしまいます。

【希望】がある限り、人は諦めることはできません。そして、【希望】は大きければ大きいほど、自分を支える大きな力になると同時に、自分に大きな負荷を与えるのではないでしょうか?

【希望】を捨ててはいけないという言葉がありますが、【幻想】に囚われ続けてはいけないという言葉もあります。その線引はどこにあるのか、改めて考えさせられます。そして、薫子は特に【希望】によって苦しんでいる描写が鮮明でした。(篠原涼子さんの演技がすごいという部分もありますが……)

その苦しみは、尊い意志のもとなのか、それとも愚者の足掻きに過ぎないのか……。

人は永遠に戦い続けることはできないのです。戦えなくなった時に、希望も絶たれるのでしょうが、全てにおいてそれは本当にネガティブな印象しかないのでしょうか?

最も私の意見ですが、周りから非難され続けた延命措置ですが、決して無駄ではなかったと思っています。

生かし続けるという希望の点ではなく、ある1点において家族が確信を得られたからです。

科学技術によって【希望】ではない”何か”を家族、特に薫子は得ることができました。それが何かはぜひ見てください。

ちょこっとダメ出し

若干無神経な人が意図的に多すぎる気はします。まあ、創作なので強調している部分はあるのですが……というのはやや微妙ですが、見ていて気分のいいものではないかもしれませんね。

終わりに

「脳死」という医学的にも法律的にも考えるのが難しい問題、そして家族と周囲の壁、家族自身の葛藤など色々と考えさせられる映画でした。

「命は尊くない」などと間違っても言うつもりはありませんが、「人には生きていてほしい」という非常に純粋で強い想いは普遍的なようでそうではないかもしれません。

ちなみに、有名な漫画で、私がずっと印象に残っている有名なセリフではこんなものがあります。

人はいつ死ぬと思う・・?
心臓を銃で撃ち抜かれた時・・・違う
不治の病に侵された時・・・違う
猛毒のキノコのスープを飲んだ時・・・違う!!
・・・人に忘れられた時さ・・・!!

Dr ヒルルク『ONE PIECE』 著 尾田栄一郎より

色々な解釈ができますが、一つの答えとしては、人の「死」が終りとなるのか、それとも誰かに繋がっていくのかを考える言葉でもあります(この映画にもちょっと関係のあるセリフでもありますね)

終わりと考えてしまった和昌と瑞穂は必死に引き延ばそうとしました。間違いというにはあまりにもかなり悲しく、正しいと言うにはあまりにも禁忌的な行いでした。

未来に向けて技術も進歩していく中で、禁忌が禁忌でなくなることはあるのでしょうか?それは恐ろしさとともに、救いをもたらすのでもあれば、果たして求めることを誰が責めることなんてできるのでしょうか?

あと、終盤のワンシーンで少しだけ涙を流してしまいました。ネタバレなので言えませんが、このシーンだけでも当映画を見た価値は十分にあると思っています。

非常に切ない映画でした。

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