『ゴリラ 裁判の日』(著:須藤古都離)を紹介します。人はゴリラに謝らなければなりません。人に近づけながらも遠ざけたことを。

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ポジティブ・クリティカル!

一言で

ゴリラが訴える”その言葉”はもはや、人とは違う力を持っていました。

どんな本?

手話によって人類の言語を理解し、手話を言語に翻訳する機能を持った専用の機械を使うことで喋れるようになったゴリラであるローズは、アメリカの遊園地で暮らしていました。

彼女はある日、不慮の事故により、夫を殺害され、言葉の力を駆使して、裁判を起こします。しかし、動物園側の様々な正当な理由、やむをえない事情から敗訴となり、人間に失望しながらも、ゴリラとも人間とも少し違う自分の立場に揺れ動きながら、生きていきます。

「ゴリラが喋れるだけでも荒唐無稽なお話なのに、さらに裁判まで起こすなんて!」と多くの人が荒唐無稽に思えるかもしれませんが、読んでいくと、なかなか現実味がある話であり、良くも悪くも、近未来の技術が発展すれば十分起こりうる可能性を感じさせました。

そして技術が生み出す問題点であり、課題について改めて考える側面もあると言えます。

  • 人とゴリラは何が違うのか?
  • 「話せるようになる」は権利か義務か
  • そして、そもそも「人」とは何なのか?

様々なことを考えるきっかけとなるでしょう。

あなたは動物と話せる未来に希望を感じるか、恐怖を感じるか、この本で試されるかもしれません。

注意点

いつもだったら先におすすめポイントについて語りますが、今回は先に注意事項を述べておきます。

本では最後に述べていますが、ゴリラの種や生態について必ずしも真実を述べているわけではありません。

作中でローズはゴリラに関するとある出来事に遭遇しますが、現実でそのようなことが起こる可能性は(今のところは)ない模様です。

物語としては必要なシーンなのですが、「ゴリラってそういうものなんだ」と判断するのはあとがきを読むまで待つことをおすすめいたします。

おすすめポイント

鋭いゴリラの観察力

物語は終始、ローズの視点で繰り広げられます(最初だけ例外がありますが)

人語を話すローズはもはや非常に人間に近い存在であり、共感しやすい部分も多いものの、ゴリラの考え方で定期的に「そういえばローズってゴリラだった」と思い返されます。

どこか無邪気であり、どこか厳しく、そして、この上ない異質な考えであると同時に、当たり前に人と同じように家族を大事にしたり、親愛を覚えてたり不信感を覚えたりと様々な感情が浮かびます。

どこか見守りたくなるような、おかしくなるような、あるいは少しだけ恐怖心を抱くような不思議な感情が芽生えますが、人に近いながらも人ではない、新しい考え方をたどることになるでしょう。

そして、この本を読んでいるのが人間である限り改めて人間というものを考えるきっかけとなります。人間とゴリラ、違う部分は多くあれど、共通する部分もあり、あるいは話せば理解し合える部分もあり、そして決して理解できない部分もある、人間同士でさえ難しいことである、互いを尊重することの難しさを改めて学ぶことになるのです。

少なくとも、最初の裁判では、ローズは尊重されませんでした。その理由もテーマの一つになるのです。

「言葉」の重み

今更語る必要もないほど浸透した話ですが、言葉は人を活かし殺しもします。

作中で起きた事件はローズだけではなく、殺されたゴリラや、被害者の母親をも巻き込んでいきます。そして周りの好き勝手な人間たちが正義感嗜虐心、あるいは承認欲求などによって追い詰めていきます。

いわゆる炎上というものであり、理由はどうあれ、人を精神的に追い詰めるには十分な状況でしょう。

さて、自分がもしなったらと思う時、こんなことを思いませんか?

「言葉なんてなければよいのに」

もちろん現実的かどうかはおいといて、言葉があるからこそ、人は文明を築き、そして力だけではない理性を手に入れました。一方で、ただ単に力、あるいは感覚や慣習だけで生きている野生の動物もおり、人の言葉に病むと彼らを羨む経験が私にもあります。

そして読んでいくとこんな感情が芽生えました。

ローズに言葉を与えたのは果たして正解だったのか?」

もちろん言葉がなければ解決した問題というわけではありません。「夫が銃で殺されたことは動物園側が悪い」という自分の意思を伝える手段がなければただ黙って泣き寝入りをするしかないのです。

一方で、言葉があったからこそ、ローズは裁判を起こすことまで考え、そして打ちのめされ、様々な批判を”理解”してしまうことになるのです。

改めて、言葉の持つ重みと強さと、そして鋭さについて考えられずにいられませんでした。

ただ、ローズは最終的にはその言葉の力を非常に力強く、そして理解して扱うようになります。正直、私より強く、そして言葉を使うのがうまいかもしれない、とすら考えそうになりました。

「自分を」決めるということ

もちろん裁判の結果がどうなったかはぜひ作品を読んでほしいのですが、実はローズは最終的に裁判の結果より重要なことに気が付きます

「自分は何者か?」

それこそ人がよく考えることですね。喋れるゴリラ、という時点で普通のゴリラではなく、かといって姿が違うので、人間というのもなかなか難しい。

それこそ、「ゴリラでも人でもない中途半端な存在」と見なされる可能性があります。

では、その分岐はどこで決まるのか?これもまた裁判のテーマであり、ただ、勝ち負けはどうでもいいといった理由でもあります。この裁判が世界を大きく動かすか、あるいは今後のローズへの見方を変えるか、はたまた動物園の評判はどうなるか、友人の目線はどうなるか。

物語としては重要ですが、最後はどうでもよくなるかもしれません。そもそも、もしかしたら思ったよりローズが見つけた大切なことに比べたら、人が気にしていることはどうでもいいことなのかもしれない、とすら思います。

少なくともこうしてもし私の拙い記事を見ている人がゴリラだろうが、宇宙人だろうが私は気にしないので、どうぞ、勧めてください。

……冗談はともかく、もしかしたら、あなたが持つ悩みをローズが救ってくれるかもしれませんよ?

最後に

タイトルのインパクトも然ることながら、最終的にそのタイトルをひっくり返し、さらなるインパクトを与え、様々な気づきを与えてくれた本でした。

思うのは、長靴を履いた猫や、ファンタジーや、童話では喋る動物は珍しくないのに、なぜ現実味を増した大人の読み物になると、色々問題が起きてしまうのか。

それは生物を人間と対等な目線で見るということが非常に難しいということです。いえ、もっと言うのならば、自分と少しでも違うものは対等に見るのが非常に難しいと言えるのかもしれません。

動物とコミュニケーションをとるのが難しいのは言葉が通じないからというのもありますが、じゃあ言葉通じたら全部解決かと言われたらもちろん違います。

ローズも喋れるとはいえ、条約で保護されていたり、動物愛護団体に色々絡まれたり、裁判のときにはもっとひどいことを色々言われますが、どこまで言ってもゴリラだからという残酷な現実が次々と襲いかかるのです。

そして、彼女は言葉の力を使い、その現実に真っ向からぶつかり合っていきます。ゴリラの生まれつき持つパワーではなく、人が当たり前にもつ知識ではなく、彼女自身の力となる言語で、裁判に挑んでいくのです。

最後までこの本を読んだら、あなたはきっとローズをただの喋れるゴリラとは思えなくなるでしょう。その時にローズという存在を見る目こそが、この本が与えてくれる一番強い力なのかもしれません。

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